文鉄・お札とコインの資料館

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企画展 「円」その歴史と日本社会のあゆみ


※おことわり:このページに記載の内容は2024/03/01現在のものです。以降の誤記等の修正により必ずしも常設展ページの記載と一致しないことがあります。また、ここに掲載の貨幣は一例であり、前述時点で収集した貨幣を表示しています。




この企画展の対象年齢は小学校3年生以上としています。この企画展はGlobal Money Week協賛企画で、コラム貨幣で語る近代日本史を元に加筆したものです。



プロローグ - わたしたちのお金「円」


「円」それは、日本にくらすわたしたちが使っているお金です。今はお札が4種類、コインが6種類発行され、キャッシュレス社会となっている今でも、キャッシュレス決済にはかならず「円」が単位として使われています。円が日本のお金と定められてから約150年。その間に円と日本社会はどのような歴史を辿ってきたのでしょう。その足跡を追ってみましょう。


円が始まる前のお金と円の始まり


1868年より明治時代に入る前、日本の貨幣制度は各藩(今の千葉県や三重県などの都道府県にほぼほぼ該当)が発行していた藩札とよばれる紙幣と、大判小判などでよく知られる金貨や銀貨、そしてよく穴銭と言われる中国の影響を強く受けている銭貨(ゼニ)が流通していました。これは種類が多く雑多なものもありました。また東日本と西日本で貨幣価値が違い、中央集権国家を設立する上で貨幣制度を全国で統一する必要がありました。

    ●当時発行されていた穴銭


    名称 :
    寛永通宝
    サムネイル :
そのため1871年(明治4年)に新貨条例と呼ばれる法令ができ、日本の通貨単位は(1円=100銭、1銭=10厘)で統一されました。貨幣については1869年(明治2年)に設立された、今日でも貨幣を造幣している造幣局が発行し、紙幣については当時は日本銀行はまだ設立されていないため、最初は政府が、1873年(明治6年)からは国立銀行(現在のみずほ銀行や百五銀行など)が発行しました。


現在の日本の貨幣は白銅やニッケルなどその材質そのものに大きな価値があるものではありませんが、当時の貨幣は金や銀の貨幣における配合量においてその貨幣の価値(通用額面)が決まる金本位制および銀本位制が採用されていました。たとえば50銭銀貨は13.47g、50銭の倍の1円銀貨は26.95gとちょうど重量が倍になっています。


紙幣の乱発とインフレーション解消のための日本銀行


国立銀行設立当時は金貨および銀貨との兌換が保証された兌換紙幣が発行されていましたが、経営不振により金貨や銀貨との兌換を打ち切った不換紙幣が発行されることになりました。しかし、1877年(明治10年)の西南戦争などの戦費がかさみ紙幣発行額があがり、インフレーションが発生しました。例えば現代の日本銀行券2000円紙幣は100円貨幣20枚と当たり前のように等価ですが、当時は金や銀の配合量で貨幣の価値が決まっていたため、爆発的に紙幣発行が増え紙幣の信用が下がり紙幣と貨幣が額面こそ一緒のものの等価ではなくなりました

これは国立銀行や政府のいたずらな紙幣乱発が招いた結果であり、今後このようなことのないよう、紙幣を発券できる権限を政府から独立させた中央銀行に与えることになります。そして1882年(明治15年)、現在ではおなじみの日本銀行が設立され、日本銀行兌換銀券が発行されました。
その後日本は日清戦争に勝利し、念願の金本位制が実現しますが、1円金貨を新しい基準で作ろうとするとごくごく薄く軽いまるで1厘銅貨のようになってしまうため造幣されませんでした。なので金本位制とはいえ、基礎単位である1円金貨がないどころか、台湾をのぞく国内で1円銀貨の流通も禁止されます。上記改造1円紙幣で兌換すると謳っている1円銀貨が通用禁止されている上、改造1円紙幣は昭和前期まで発行され続けますから、なにかもどかしい感じがします。


また、1889年(明治22年)から初めて白銅貨が登場します。従来の5銭銀貨はサイズが小さく、流通不便貨幣となり製造が打ち切られていました。そして発行された菊5銭白銅貨と呼ばれているものは初めて日本人の手によって造幣された白銅貨で、今までの龍や旭日と代わりシンプルなデザインで登場します。


広がる円の勢力圏


1895年(明治28年)の日清戦争終結、1910年(明治43年)の日韓併合により、現在の台湾(中華民国)と大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の領土が日本領となりました。日本領ということは通貨は円となりますが、発券銀行として1899年(明治32年)に台湾銀行を、1911年(明治44年)に当時の韓国銀行を改称して朝鮮銀行を設立し、それぞれ日本銀行券と兌換を謳った台湾銀行券、朝鮮銀行券を発行します。
日本銀行券ではなく、台湾と朝鮮それぞれに発券銀行が置かれた理由は、不安定な台湾と朝鮮の経済が内地(現在の日本領土)に影響を及ぼす可能性があること、そして朝鮮が大陸と繋がっていることから他国と戦争状態に入り攻め込まれた際にいち早く通貨を切り離し、内地経済への影響を抑え込むことが目的でした。そのため台湾銀行券には「此券引換に金拾圓相渡可申候也」、朝鮮銀行券には「此券引換に日本銀行券拾圓相渡可申候也」と印刷(金本位時代には朝鮮銀行券には金貨とも記載)されていました。
実際にこれら台湾と朝鮮の銀行券が日本銀行券から実際に切り離されたのは1945年(昭和20年)の太平洋戦争の終戦でした。なお、貨幣は内地同様の貨幣が流通していました。


第一次世界大戦の光と影で


第一次世界大戦で銀の価格が大幅に高騰し、このまま銀貨を造幣し続けることが困難になりました。法の改正を実施し銀の量目変更を行うも、さらに銀の価値が高騰します。そこで銀貨に変わり紙幣を発行することになりました。とは言っても貨幣の代わりに発行するのですから、発行元は日本銀行ではなく大日本帝国政府になります。しかし、明治期に大失敗したことから制約を設け、その中で10銭、20銭、50銭の銀貨に変わる紙幣を発行します。また、これらの小額紙幣は朝鮮銀行からも発行されました。その後貨幣は銀から白銅など別の素材に切り替わります。



また、日本銀行券も印刷技術の向上によって新たな偽造防止対策が必要になったため流通紙幣は新紙幣へと切り替わります。特にこの時期に発行された乙10円紙幣は初めて和気清麻呂が採用され、以後昭和前期まで10円券の顔となります。また、この乙10円紙幣は日本銀行券で初めて人物の肖像が左側に配置されました。しかし、銀行などで紙幣勘定の際に肖像が確認できないとされ、不評を買い以後人物の肖像は右側および中央に固定されます。

第一次世界大戦の好景気が戦争終結とともに徐々にはじけ、さらに関東大震災、昭和初期の金融恐慌で金融機関の経営は危うくなっていました。そこに当時の大蔵大臣が「東京渡辺銀行が破綻した」と事実ではないことを口走ってしまい、各所の銀行で取り付け騒ぎ(銀行に預けている預金を一斉に引き出すこと)が発生します。日本中の銀行が大混乱になり、大量の預金引き出しにより銀行券が不足する事態となりました。そこで当時の最高額面の倍である200円紙幣が登場しましたが、この紙幣は裏には印刷がされておらず、日本銀行の総裁印を除けば黒一色と非常に簡素な、前代未聞の日本銀行券が発行されました。なお、当時の帝大卒初任給は50円と言われていますから、相当高額な紙幣でした。

1927年(昭和2年)には今まで日本銀行が発行した日本銀行兌換券の発行高を明らかにするため兌換銀行券整理法が制定され1円券を除き失効することとなり、そのための新紙幣が発行されることになりました。このシリーズからは今日によく見るような豊かな彩文が使用され、紙幣の額面に対しての大きさが統一されました。


欲しがりません勝つまでは...次第に困窮していく日本


1937年(昭和12年)ついに支那事変が勃発し、日本は泥沼の戦争への道を歩んでいきます。そのころ国会で臨時通貨法が制定し、法令の改定なく貨幣について材質などを変更することができるようになりました。まず変更されたのは50銭銀貨です。50銭銀貨は明治に発行されてから他の額面のように材質が変更されることはなくずっと銀貨で発行されてきました。それを紙幣に変更しました。これも日本銀行券ではなく、貨幣に変わるものとして政府紙幣で発行されました。この時期は国粋主義が盛んになり、貨幣や紙幣のデザインにも次第に国威掲揚的な図柄が目立つようになります。さらにアメリカやイギリスといった国が敵国となったことから敵性語排除が社会運動となり、日本銀行券や台湾銀行券、朝鮮銀行券から英語表記(〇〇Yen)が消えました。

1938年(昭和13年)には臨時通貨法が成立し、貨幣が目まぐるしく変わります。サイズや重さの変更はもちろんですが、材質、たとえば1銭貨幣では青銅貨からアルミ貨へ、アルミ貨から錫貨へ、不発行に終わりましたが錫貨から陶貨へと材質が変化していきます。錫は本来造幣には向く素材ではなく、偽造貨幣の製造に使われるほどのものですが、他の金属が枯渇する中、東南アジアなどの占領地から豊富に手に入れることができたため、止むを得ず錫を材質として造幣されました。また5銭と10銭については、もはや貨幣の造幣が困難であり、陶貨への切り替えも検討されましたが、通貨は国力を表すものそのものであり、これらも政府紙幣への切り替えが検討されました。しかし、大蔵大臣の告示のみで発行できる日本銀行券の方が、政府紙幣発行にあたり法改正が必要なため議員招集などを行う必要がありますがその手間が省けるため、日本銀行券として最低額面である5銭と10銭券が発行されるに至りました。

さらに事実上金や銀などの価値によって通貨の価値が変わる本位制度から政府や中央銀行が発行高によって通貨の価値をコントロールする管理通貨制度に移行していました。1942年(昭和17年)に日本銀行券法が改正されると「日本銀行兌換券(兌換銀券)」から「日本銀行券」へと銀行券のタイトルが変わります。この時期とほぼ同時に日本銀行券とともに台湾銀行券、朝鮮銀行券の質の低下が顕著に現れるようになります。これは軍票や国債などの印刷物が増えたことや、印刷局の徴兵による人材不足などが影響しています。紙幣の大きさこそ変わりはないものの、すかしなどが簡略化され、記番号も記号のみにかわります。戦争末期には10円と100円に限り極限まで簡略化されたろ号券(10円と100円)が発行されます(流通開始は戦後直後)。





戦争は終わった。でも....


1945年(昭和20年)に太平洋戦争(大東亜戦争)は大日本帝国の敗戦という形で終わります。戦時中に国家総動員法により統制されていた物品の公定価格が崩壊し爆発的に物価が上昇、また戦時中は国民精神総動員によって「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などの標語で頭ごなしに押さえつけられていた国民の物欲のブレーキが外れ、さらに、敗戦にともなう軍人への退職金の支払いなど様々な要因が重なり一度に銀行券需要が増大します。終戦翌日から日銀は当時の最高額紙幣よりもさらに高額面の丁200円券甲1000円券を発行します。

こうして終戦当日は293億円であった日本銀行券の発行残高はわずか終戦から半月(8月末日)で423億円へと膨れ上がります。これによって加速的にインフレーションが進行し、たとえば公定価格として制限されていた駅にあるような立ち食いそば店でのかけうどん・そばが戦前(昭和15年)では15銭だったのに対し、敗戦後の闇市での代用うどん(現代でいう魚肉ソーセージのようなものをうどん状にしたもの)の価格は5円(15銭の約35倍)であったといわれています。

金属枯渇は深刻なもので、終戦時かろうじて造幣局が造幣できていた貨幣は1銭錫貨のみと言われています。

終戦から始まった一連のインフレーションへの歯止めをかけるため、流通紙幣を失効し強制的に預金させ、払出額を制限する「新円切り替え」が1946年(昭和21年)に行われました。当初切り替え対象は当時流通している10円券、20円券、100円券、200円券、1000円券が対象とされていましたが、昭和21年02月22日の大蔵省令によって5円券も対象となり、今まで発行された1円以下を除く、すべての額面の日本銀行券を失効させることとなりました。この時に新円とよばれる新しい日本銀行券を製造することになりますが、占領下の日本にとって非常に困難なものとなりました。新円切り替えが突発的に発表され、十分な製図をする余裕がないため、大蔵省印刷局(現在の国立印刷局)以外の民間印刷会社に広くデザインを募集し、これには凸版印刷案が採用されることになりました。しかしいざ印刷となった段階で当初予定していた肖像がGHQより旧軍国主義および日本神話的な者の肖像、仏像は不適当などの指示があり、急遽差し替えることになります。貨幣についても軍国主義、日本神話的な柄を用いたものが回収され、新貨幣へと切り替えられます。貨幣は戦後、旧日本軍が使用していた薬莢などを貨幣材料として大量に使用することができたため黄銅貨が多いのが特長で、国名が「大日本」が「日本政府」に変わり、紙幣、貨幣ともしばらく経つと天皇家の菊花紋章が削除されます。

紆余曲折があったものの、新円切り替え当日に10円、100円紙幣が流通を開始します。このうちの100円は新デザインではなく、戦前に発行された紙幣に新円標識をつけたものとなりました。これもGHQの「偽造防止のため、100円以上の額面の紙幣は凹版を用いること」という趣旨の指示のためです。この他にも200円、500円、1000円紙幣が発行予定でしたが、インフレを煽るという指摘と金額相応の様式を持つ紙幣を作ることができなかったことから不発行となります。この時、準備期間の少なさから新円が不足したため、一時的に従来の日本銀行券に切手大の証紙を貼り付けて一時的に新円とみなす証紙付き券が流通しました。ただし、新円が十分に出揃ったことからわずか8ヶ月ほどで証紙付き券は失効します。




これらA号券は急造が急務であったため印刷局のほか大日本印刷や凸版印刷などの民間企業の印刷工場でも製造がなされました。そのため品質の統一ができず、紙色やインク色が均一ではなく、また100円券以外はすかしや1枚ごと固有の番号もないため、日本が復興するにつれて偽造券の疑いのある券が頻出しました。しかしながら真券であっても前述のように品質が均一でなく、さらにズレなどで本来は流通すべきではない損券まで真券として流通してしまうことがあったため、その偽造券の疑いがある券の偽造券としての立証ができませんでした。

    ●色合いや印刷の一部に相違があるA10円紙幣


    大蔵省印刷局 酒匂工場印刷 :
    凸版印刷 板橋工場印刷 :

新円切り替えで一定の期間は成果があったものの次第に終戦直後の物価に戻ってしまい、1円から10円の券種は日本銀行設立時から長らく発行が続いた額面であったものの、すでに1円が戦前の数銭相当の価値しかなくなってしまい、紙幣では不便だということで貨幣へ切り替えられることとなりました。また、A号券には引き続き小額紙幣として5銭、10銭の額面があります。これは、貨幣価値の変化により銭単位の貨幣を造幣すると大幅な原価割れを引き起こす可能性がでてきたからでした。

なお、このA5銭紙幣は日本銀行券で大きさ、額面とももっとも小さい紙幣となりました。このA5銭券から皇室の菊花紋章が消え、旧字体から新字体(錢から銭)、横書きが左から右へ書かれるようになります。

その後、インフレの進行によりもはや銭以下の単位は流通にふさわしくなくなり、1953年(昭和28年)に施行された小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律によって流通停止となり、日本の通貨は円のみになります。なお、これによって江戸時代から貨幣として有効であった寛永通宝(1枚1厘)も流通停止となりました。現在では50銭貨幣を2枚出すなどしても小売店はおろか、金融機関であっても1円として通用することはありません。

民主主義国として再建していく日本


終戦から4年たってもインフレーションは止まりません。GHQはひたすら赤字を垂れ流す日本の財政に憂慮し、当時デトロイト銀行の頭取ジョゼフ・ドッジが来日し緊急経済政策「ドッジライン」が実施されます。これは賛否両論ありますが、ようやくインフレーションは終結し、戦前の貨幣価値と同等にはもはやなりませんでしたが、物価変動がようやく落ち着きます。経済が安定した頃、A号券の偽造と思われる紙幣が目立つようになってきました。しかし、果たしてそれが真正券なのか偽造券なのか判断できない券がありました。それもそのはずです。A号券は新円切り替えに間に合うように、短い期間で用意された品質が銀行券に相応しくないものでした。また、製造が民間企業にも及んでいたこともあり、印刷された会社によって目で見ても色が違うとわかるものもあり、ということがありました。そこで製造を戦前同様大蔵省印刷局のみが行うこととなり、品質も銀行券に相応しいものとしたB号券が発行されることになりました。GHQにあらかじめ許諾を取っていたものは以下の他に1円、5円、10円券がありましたが、前節のとおり貨幣への切り替えが行われたため発行されませんでした。



昭和30年代(1955年〜)になると神武景気と呼ばる好景気がやってきます。その頃にはB1000券の大々的な偽造が発生していたことと、さらに1000円券の流通量が8割以上を占め、偽造対策の強化、またさらなる高額面紙幣が求めらていました。そこでC号券が発行される運びになります。その頃には100円までは貨幣へ切り替えられたため、500円以上の額面のものが紙幣として発行されました。C号券は日本が主権を回復してから初めて発行された紙幣シリーズです。B号よりも肖像が大型化し、500円、1000円の2券種は今までの額縁調の硬いデザインから大きく変わり、使用される色数も増え紙幣のデザインとしてモダンなものになりました。5000円および10000円の高額紙幣は、当時の大卒初任給が1万3000円ほどということもあり、庶民には高嶺の花とも言えるほどの高額紙幣で、発行する必要が果たして本当にあるのかという議論が頻繁になされましたが、紙幣も発行されると高度経済成長とともに順調に流通量が増えました。



お金は人が扱うだけのものではなくなっていく...


昭和50年代(1975年〜)になるとC号券の偽造対策も時代遅れのものとなり、偽造紙幣が出回り始めます。また、この頃には自動販売機やキャッシュディスペンサーなど紙幣を人ではなく機械が扱うことも多くなってきました。そこで偽造対策に万全を期し、かつ機械で取り扱いしやすいよう全体的にサイズを小さくし、縦の寸法をすべての額面で同じものとしたD号券(当時は1000円、5000円、10000円のみ)が発行されます。このシリーズからは従来の政治家の肖像ではなく、文学者などの文化人が用いられるようになり、紙幣に使用する色数も全体的に増え、色調も額面ごとに大きく変更することになりました。また記番号についても偽造防止の兼ね合いから全額面で異なった書体を使用することになりました。また、1982年(昭和57年)からは500円が貨幣として発行されました。


戦時中に兌換制度を廃止したことにより事実上の管理通貨制度となっていましたが、法律上は明治時代の本位貨幣を定めた貨幣法が依然有効のままでした。つまり、この時はまだ明治時代の金本位貨幣が通用することとなっていたのです。無論、長年の社会の流れの中で、額面価値よりも地金としての価値がはるかに上回っていたため、社会で行使されることはありませんでした。また、当時本位以外の貨幣の発行及び流通を定めた臨時通貨法には当時発行されていた500円から1円までの貨幣の他に1953年(昭和28年)に廃止されたはずの50銭から1銭の貨幣も定められていました。

臨時貨幣法はあくまで戦時体制の中で本位貨幣の代わりに別の材質で法貨として発行するために定められた暫定的な法律であり、また当時発行が盛んになり始めた記念貨幣の発行の足かせになっていました。なお、1985年(昭和60年)に発行された昭和天皇御在位60周年記念100000円金貨は材質が本位貨幣と同じ金でありながら法律上補助貨幣でした。そこで、昭和末期の1988年(昭和63年)に通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律が施行され、貨幣法及び臨時通貨法などが廃止され、同時に明治時代に発行された1円から20円までの本位貨幣が失効しました。なお、失効直後に金融機関で現在の紙幣や貨幣に両替する期間が設けられましたが、両替を申し出たものは誰一人いなかったとされています。また、この施行と同時に臨時通貨法の下で発行された現行通常貨幣及び記念貨幣は新たに施行された法の下で発行されたものとみなされることになりました。これにより法律上も管理通貨制度に移行しました。

進むキャッシュレス化、でも進化するお札とコイン


2000円券以外のD号券が発行されてから、カラーコピー機やコンピュータなどの情報機器の爆発的な普及により、従来のD号券の偽造防止対策が陳腐化してきました。2000年(平成12年)に沖縄でのサミット開催及び西暦2000年という節目、諸外国では2ドルや20ドルなどの額面の紙幣が発行され、広く流通してることからD2000円紙幣が戦後初めて2の単位の日本銀行券として発行されました。この2000円券はE2000円と呼称してもよいほど従来のD号とは比べ物にならないほどの進んだ偽造防止対策が導入され、2004年(平成16年)のE号1000円、5000円、10000円紙幣にも広くD2000円券の偽造防止対策が用いられました。これらによって日本銀行券の偽造対策は現代に即した非常に進んだものとなりました。



また、1999年(平成11年)には韓国500ウォン貨幣を用いた大規模な変造事件が発生します。これは500ウォン貨幣にドリルで傷をつけ500円白銅貨と同じ重さにするという、人の目では明らかに変造とわかる稚拙なものでしたが、当時のATMや自動販売機では500円と誤認識されてしまい、駅や飲料などの自動販売機やATMなどでコインそのものが使用できなくなるなど、大きな社会問題とされました。これを受け2000年(平成12年)に急遽500円貨幣が白銅貨からニッケル黄銅貨として改鋳されました。


さらに2021年(令和3年)には500円貨幣がバイカラー・クラッド貨に進化しました。これは数は少ないものの、500円ニッケル黄銅貨の偽造事件は毎年発生しており、2024年(令和6年)現在の駅や飲料などの自動販売機やATMなどの他にセルフレジや自動釣り銭機などが大いに普及した今日に、仮に大規模な偽造事件となりこういった機械での取り扱いが停止された場合、キャッシュレス決済のための電子マネーにチャージできなくなる可能性もあるなど、1999年(平成11年)前後の社会問題とは比較にならないほど大きな問題が発生します。このため偽造対策として先手が打たれた格好です。500円記念貨幣においてバイカラー・クラッド貨自体は2008年(平成20年)に発行された記念貨幣より採用されており、100円記念貨幣では2015年(平成27年)よりクラッド貨として発行されています。


今年2024年(令和6年)には1000円、5000円、10000円の日本銀行券がF号券に刷新され、偽造対策強化とともに初めてユニバーサルデザインが取り入れられ、これまでNippon Ginkoだったアルファベット表記に加えてBank of Japanという英語表記が加わり、日本や中国、韓国などの漢字文化圏以外の外国人でも日本の通貨であることが認識しやすくなりました。

    ●2024年に発行される新紙幣


    額面 :
    1000円券(2024年発行) 5000円券(2024年発行) 10000円券(2024年発行)
    肖像 :
    北里芝三郎 津田梅子 渋沢栄一
    サムネイル :

エピローグ - 生活を支える「円」


2020年(令和2年)のCOVID-19(新型コロナウイルス)パンデミックの際に人との接触機会を減らすという観点からキャッシュレス決済が大きく波及し、その割合も伸びました。しかしお金としての「円」が不要になったということはなく、キャッシュレス決済においても国内のほとんどの場面で単位として「円」が用いられています。また、電子マネーなどへのチャージにも「円」が用いられ、多くの場面で現金を使ってチャージしているかと思います。
もしも「円」の大規模な偽造などが発生し、「円」を使うことへの抵抗感や不信感が生まれてしまい、通貨としての価値が揺らいでしまうと、現金はおろか、「円」を使用しているキャッシュレス決済の信頼性さえ揺るがしかねません。
決済手段の多様化によりお札やコインといった現金の「円」の使用頻度が少なくなっても、偽造対策は常に進歩し、陰ながら私たちの生活を支えています。

「円」を使うさまざまな場面


一部の紙幣画像は以下のウェブサイトから引用し、加工しました:
国立印刷局ウェブサイト( https://www.npb.go.jp/ja/n_banknote/ )

企画展 「円」その歴史と日本社会のあゆみ





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